2015/2/5(火) 「真に美味しい酒を目指して」

2015年2月5日(火)

「真に美味しい酒を目指して」

旭酒造株式会社 桜井 博志氏

【プロフィール】
旭酒造株式会社代表取締役社長。1950年山口県周東町(現岩国市)生まれ。
1973年に松山商科大学(現松山大学)を卒業後、西宮酒造(現日本盛)での修行を経て76年旭酒造入社。
しかし、酒造りの方向性や経営をめぐって先代である父と対立して退社。
79年に石材卸業の櫻井商事を設立して集中していた。
父の急逝を受けて84年に家業に戻り、純米大吟醸「獺祭」の開発を軸に経営再建をはかる。
社員による安定的な旨い酒造りを目指し、四季醸造の実現や遠心分離器の導入など改革を進めた。
2000年頃からは海外販売にも力を入れている。

「成功へ繋がる失敗の数々」

今でこそ、私どもの酒造は、私が社長になってから飛躍的な成長を遂げたのですが、実は失敗だらけの人生でした。その失敗があったからこそ、今があります。今日はそのお話をしましょう。

 

私どもの酒蔵は、近くの小学校の全校生徒が8名しかいないし、朝の散歩にも熊が出るからやめなさいと言われるくらいの過疎地にあります。昔は完全に負け組で、地元ではどうにもならず、大市場である東京市場に売り込みをしました。地元で需要がある酒蔵は大事にしてもらえる。でも、私たちには帰る地元がなかったんです。地元に帰る=マーケットから撤退する、ということを意味していた。東京市場にとにかくあきらめないですがりついていくしかなかった。結果、開拓することが出来たのです。

「より良いお米を求めて」

次に県内ではお米が手に入らなかった。山口県内ではお米のイメージってなかったってのが本当のところじゃないでしょうか。山口県の地酒なんてたいしたことないというのが県の関係者の意見。純米大吟醸を作るのにも、いいお米がないと作れない。まずは自分たちで米を作ることをまず考えました。

 

これがなかなか難しい。普通は各県の経済連クラスのところを通さなければいけないんです。山口県の経済連に山田錦の種もみをお願いしにいったんですが、結果、3年間断られました。でも一切その合理的な理由も説明してくれないんですね。さすがに頭に来て、「もう今後一切山口経済連を通して一俵たりとも米は買いません」とたんかを切ってしまったんです。

 

今では米を買うルートは広くはなっているのですが、組合を通して米を買うというのが一般的なルート。そこを自分で切ってしまった。それから、いろいろなところに手を広げていきました。結果として、山田錦の全国生産の1割強のシェアを獲得することが出来たんです。あのとき、経済連の傘の下に居たら、このような購入ルートは出来なかったでしょう。

「口を出す蔵元へ」

当時は杜氏の出来も悪かった。県から、「あまりにもかわいそうだから」ってことで兵庫県の但馬杜氏を紹介してくれました。結果として、私どもの酒蔵の基礎を作ってくれたんです。でもこの杜氏も大吟醸を作ったことがないと。前年の失敗があったから困ったなぁと思っていて。このとき、静岡県の大吟醸が出回っていました。とある先生が、静岡県の吟醸酒についてという、それは細かく書いてあるレポートがあったんですね。で、それを杜氏のもとに持っていって「おやっさん、これやろう!」と。

 

今思えば、65点くらいの出来なんですけど、まぁまだ若かったし、酒造りは、優れたテクノロジーをどう入れるかだ、なんて生意気なことを言ってました。ここで大きく私どもの酒蔵の性格が変わっていくわけです。社長が酒造りに口を出す。30年前の一般的な酒蔵の形は、社長は酒に口出ししません。「和醸良酒」という言葉があり、和はいい酒を生み出すという、そういうスタイルだったんですが、私は口を出す蔵元になってしまった。

 

首都高速道路から受けた依頼を事例にご説明します。7年前、「首都高速道路の交通事故を減らせ」というミッションを受けました。当時首都高では年間1万2千件程の事故が起きており、そのほとんどの原因がちょっとした思いやりの不足でした。従来の交通安全キャンペーンに対しては皆ネガティブなイメージしか持っていませんでしたが、そこに新しい価値を付加して共感を創り出せないかと考えました。ただの交通安全キャンペーンを、消費者が「かっこいい」「面白そう」などという目線で見るようになったら、自ら進んで協力してくれるのではないかと。そこで立ち上げたのが、恰好良く、ポジティブに、コミュニケーションのチカラで事故を減らす「東京スマートドライバー」プロジェクトです。これをただのキャンペーンではなくひとつの「ブランド」と見立てて、クリエイターやメディア、メーカー等に協力を仰ぎました。そして次に、このブランドの本質を象徴し皆が共感してくれるメッセージを考え出しました。

 

それは、従来の交通安全キャンペーンのように悪い運転を「取り締まる」のではなく、「良い運転を褒める」ということです。すると、多くのメディアから取材が殺到し、一般市民からも賛同者が続々現れ始めました。この運動は7年連続で行っていますが、首都高の事故数は依頼を受けたときから年間2千件減るようになり、首都圏で始まったこの市民活動が勝手に全国に広まりました。東京スマートドライバーの賛同メンバーは16万人、賛同企業は150社にも上ります。もしこれが首都高の一方的な押しつけだったらここまでの規模にはならなかったと思います。そうではなく、消費者に共感を創って同じ目線で一緒にこの運動を盛り上げていこうとし、共感のタネを作ったからこそ、この運動は自走していくブランドに成長したのだと思います。

「自分の好きな酒を作る」

業績も上がってきて、次の段階で考えることは、永続的に生き残っていくためにはどうしたらいいのかということ。そこで何がネックかというと、杜氏なんです。高齢化が進んでいて、若い人がいなかった。杜氏制度は冬にお酒を作って、夏は帰ってもらうもの。しかし、若い人たちにこんなことをしていたら逃げられてしまいます。そこで思いついたのが、夏に忙しいとされる地ビール造り。なかなか許可が降りず、免許下付条件となったのが地ビールレストランでした。しかしこの時のコンサルタントが良くないし、お客様も入らず、3ヶ月でお店を閉めました。その時の話は様々なメディアで取り上げられてしまい、銀行融資もストップ。杜氏にも逃げられてしまいました。絶対絶命です。

半日悩んで、もう一回自分でやろうと思い始めた。私は、製造に口を出す蔵元だったので、ある程度製造のアウトラインが分かっていたんです。もうひとつ、まさに生きるか死ぬか、みたいな心の修羅場を切り抜けていたから、もうこれからは自分の好きな酒を作ろうと。そして若い社員と5人で酒を作り始めた。これが大正解だったんです。この時以降の酒蔵の成長を見ればいかにこの生産体制が良かったかということなんですね。いろいろなマイナス要因はあったけど、結果としては良かったんです。大量販売の論理ではなく、お客様の幸せ志向商品を作り出すことを考えています。

 

経済が発展するとお酒の値段も相対的に安くなっていくんです。こうなると酒の基本設定が変わってきます。酔っぱらってもいいからどんどん売り込まなきゃいけないっていうスタンスから、おいしくてほろ酔い段階でも十分楽しいという意識にしなければいけない、と。その流れで獺祭を発売しました。